先日,ソフトウェア技術者協会のシンポジウム懇親会で,ある先生と話をしていて,偶然にエスノメソドロジーの話になりました.それで,色々と昔のことを思い出しました.
一時期,フッサールの現象学に入れ込んでいました.フッサールの流儀で全てをドクサ(臆断)として括弧に入れていくと,明瞭な認識を得られます.しかし,そうした瞬間に生活世界の成立するゆえんを理解できなくなります.生きている世界は,ドクサのかたまりなのですから.フッサールの指導を受けたハイデッガーを初めとして多くの人が解決手段を考えます.私は,その中でも,精神分析家のラカンや木村敏さんに興味を移すのですが,長くなるので今回は省略します.
さて,エスノメソドロジーという学問分野は不思議な名前です.エスノ(ethno-)という接頭辞は,民族や文化を表しますが,民俗学と関係していません.ある集団(そこには同一民族だとしても様々な人がいます)が成立しているその姿をそのまま明らかにしようとします.
いま,手元にある本に「日常性の解剖学(1995)」という本があります.彼らのmethodologyにプロトコル分析があって,幾つかの会話が収録されています.
(夫の発話)(帰宅して)今日,ダナは抱き上げてやらなくてもパーキング・メーターにうまいこと1ペニー入れたよ.
[発話の背景]私の4才になる息子のダナは,以前はいつもパーキング・メーターの高さまで抱き上げてやらねばなかった.でも,私が彼を幼稚園から連れて帰った今日の午後,車を駐車場に留めたとき,上手に1ペニーを投入できた.
(妻の発話)あなた,あの子をレコード店に連れて行ったの?
[発話の背景] 息子がメーターに1ペニーを入れたのなら,あの子が一緒の時に,あなたは寄り道をしていたのだ.息子を連れに行く途中か,それともその帰り道のどちらかで,レコード店に立ち寄ったに違いない.帰り道に拠ったのであの子はあなたと一緒だったのか?
発話の背景をムシすると,全く脈略のなさです.文脈依存だから当たり前という大人の理解以前に,私には新鮮な驚きがありました.何故,人は会話をするかということの根源におそらくクイズ的要素があるのではと思います.あえて,分かるようには話さない.相手は,自らの推測のベースにして,同様に直截は分からないように答えを返す.それが楽しいから会話をするし,会話の成立を通じて,日常のおそらく人間関係が明らかになる(それは会話を通して作っていくものでもある).
背景どおりしゃべられたのでは,それは論理的かもしれませんが,会話する気は失せてしまいます.更に云うならば,共感や納得と行った感情もそこでは生まれない.
さて,私はセーフティケースに関わる訳語に,裁判で使うような言葉を利用します.例えば,argumentは,意味が広くて難しいのですが,立証と通常訳します.上記の会話文を記録したガーフィンケルは,エスノメソドロジーの創始者の一人ですが,彼は初期に陪審員研究を行っていました.セーフティケースは作成者のためだけのものではないので(それを通じてassessorや場合によっては利用者を納得させないといけない),ここには何かヒントがあるのではと思っています.
(nil)