言語学的・教育学的研究において,対象者はしばしば靴紐をどう結ぶかを尋ねられる.これは,言語学的限界が露呈する問いかけである. 1
冒頭の文は,KAOS本でも引用している有名な論文から借用している.前回のインタビューガイドラインに,答えられない質問はしないとあったが,まさに靴紐の結び方は,答えられないものの一つである(論文には,船乗りは専用の言語によって伝えることができるとある).
靴紐結びは言語化が難しいだけで,実際に観察すればできる.このことは,言語化が向いている知識と,そうでない知識(身体的記憶)があることを示している.
この項では,外部観察を,幾つかに分類している.
受動的 | プロトコル分析 | 対象者は,話しながらタスクを実行する.観察者は,それを書き留める |
民俗学的研究 | 長期にわたって,対象グループを観察する.タスクばかりではなく,そのタスク遂行の態度や特定の状況に対する反応・ジェスチャ・会話なども記録する | |
能動的 | 対象グループの一員となって,タスクを共に実行する |
これらの方法の利点というのは,幾つか考えることができる.より詳しく実際の状況が分かる・モレに気づく・問題領域をより深く理解できるといったことである.
ここでは,「(文を読んで)分かる」ということについて考える.
何度か利用しているボロメオの結び目を使う.我々は,現実を理解するために象徴界のコトバを使う.しかし,それはあくまで間接的で,現実からはコトバを介さない接触がある(現実界-想像界).コトバが全てを写し取るわけではないので,イメージの現実と,コトバを介した現実は異なる.
ボロメアの結び目のJ. Lacan 氏の主著は,エクリ(écrite)である 2.タイトルに「書かれたモノ」とついたこの本は,講演録が主となっている.「話されたコト」である.私の解釈だと,次のようになる.書くという行為は,そこにある一定の整合性を必要とする.少なくともそう訓練される.そうすると,話にはいわゆる起承転結が必要で,閉じてしまう.閉じたシステムは,安心して消費することができる.
一方で,閉じていない裂け目のあるシステムは,非完成品であり,消費することができない.しかし,謙虚な読み手に対しては,それによって,その読み手の心の内に何かを引き起こすことができるかもしれない.書かれたモノによっては直接伝えられない何かをである 3.そうだとすると,難解といわれるエクリにも理由があるのかもしれない.書くことによっては(或いは他のあらゆる方法を使っても)伝えられない内容を,講演録という形で文字にした.文字しかないから.
もちろん,閉じない文章が全て,直接のコトバに頼ることなく,伝える力を持っているわけではない.単なる欠陥商品かもしれない.どちらかは,にわかに分からない.
先の外部観察法あらためて見るとおもしろいことが分かる.受動的とあるのは,ひたすら文字にならないものを文字化しようとする試みである.プロトコル分析の記録には,ためいきや言いよどみ(沈黙の長さ)といった記号が埋め込まれる.能動的とあるのは,そこの一員になり,身体を通して学ぶ.従って,グループの一員として,文字を必要としない.長く銀行の仕事をしているプログラマは,限りなく銀行員に近づく.
暗黙知は,決して顕在化されない.顕在化した瞬間に暗黙知であることのよりどころ,身体性を失ってしまうから.
要求工学の実践者の難しさは,この両者の間でバランスをとることである.そして,それは全ての魅力的な仕事に共通していえることでもあると思う.
(nil)
Notes:
- Goguen, J. A.; Linde, C. In Techniques for requirements elicitation, Requirements Engineering, 1993., Proceedings of IEEE International Symposium on, 4-6 Jan 1993; 1993; pp 152-164. ↩
- エクリ(1・2・3),佐々木孝次ほか訳,弘文堂.折角なので「日本の読者に寄せて」から,少し引用します.「日本人は彼らの話について自問することをしません.彼らはそれをふたたび翻訳してしまいます.[…] 私には精神分析者たちの話と相容れない点があるなどと云う事実は日本人になにをすることができるのでしょうか?そういう事実には,私のあった人たちのだれひとりとしていささかも関心を示さなかったのです.関心をもったにしても,そのことが細部にしか出てこないような,アメリカ土民の民俗学に関連してなのです」 ↩
- 行間を読むという話ではない.行間を読むのは結局の所,話を閉じようとする行為に過ぎない ↩